無題。過去日記より

・ここ何年か、ヲチする、と言う事についても考えてる。
悪意と、バカにする、という線引きはどこなのか、と言う事について。
基本的に「カテゴライズ」自体を「悪意」としてしまうのは、ちょっと違うのかな、とは思っているけれど。

・それとは別に、いじめ問題で、某掲示板が次々といじめっ子の情報を暴き、社会的な制裁を加えようとした。いじめっこに社会適正さを加えようとした人と、痛いブログを晒してヲチってる人達は同一人物なのか。単純に考えれば違うんだけど、私にはわからない。
みんな総じて「名無し」さん、だから。

・晒してヲチって出てきた言葉が、ネットスラングになって、ツイッターで当たり前のように使われてる事が、怖い、と思う事がある。

・晒されるって恐怖だ。周囲の人は、みんな気にしないように、と言った。優しい人は、「気にしないでいてね」と言う気持ちだったと思う。私は、誰かを慰める時、そう言う気持ちだった。

・でも、誰かが、自分に悪意を向けている、と言うのはやっぱり恐怖だった。
気にしないようにね、と言われると、気にしないでいられたらどんなに楽か、と思った。
プライドだって傷ついた。
近しい人にこそ、知られたくないし、知ってほしくなかった。
私はこんな風に嫌われて、悪意を向けられる人間なんですよ、と言う事をわざわざ言いたい人間はどこにいるでしょう?
それに、言葉にしてしまえば「気にしていますよ」というアピールになる訳で、それは悔しかった。悔しかったし、周囲の人にも「こんな事を気にしてる人間なんですよ」と思われたくなかった。

・それで、この構図こそ、いじめられている事実を、誰にも相談できない、徹底的に、自信を捨てさせる「いじめの構図」じゃん、と思った。

ツイッターとか、誰でも見られる場所で、いじめの話をしたとき、ふと、「晒されてた事があって、晒されてたとき、こう思ったよ」と話そうとして、文字通りタイピングが止まった。言えなかった。言えない、と思った。怖かった。
なんでそんな話をしようとしたかって言うと
「気にして当たり前だよ」って言いたかったのだ。他人に理由もわからず悪意を向けられて、それが周りから見てどんなに「気にするような事じゃないよ」であっても、気になってしまうとしたら、それは仕方がない事なんだよ、と。
気になるよね、気になるのわかってるよ、気になるのわかってるけど、それでも、周りの人は「気にしないで、傷つかないで」って言いたいんだよ、って言いたかったのだ。

誰も、私のケースもあなたのケースも知らないのに、「いじめられてる方にも問題が」などという言葉が踊って、「気にしてうじうじしてるから余計いじめられる」とか言葉が出たりして、でも、そんな言葉に、本当は耳を貸す必要はないのに、耳に入ってきて、私はそれが辛い、と思った。

一方で、こんな風に、一瞬でも晒された事を気にして、怖いと思っていて、傷つけられているその事を、晒した人間が目にして、どんな風に思うのか、興味があった。
「満足?」「嬉しい?」と聞いてみたいと思った。多分その人は「興味ない」って答える気がする。それは本当に興味がないのかもしれないし、他に答えようがないのかもしれない。

それくらいの事なのだ。だから、気にする必要はないし、自分を責める必要もないし、自信をなくす必要もないし、人間、「痛くない」言動なんて一つもないし、痛くないカテゴライズもないし、と思うんだけど。思うんだけど。

でも、万が一、晒した人がそれを目にしたところで「こんな痛い事言ってる奴がいるぜ」と再燃させるだけの気がするから、怖くてやめたのだった。